母の遺品から、一通の手紙が出てきた。小さな白い封筒。表には、「修一さんへ」とだけ書かれている。住所はない。知らない男の名前だった。封はされていない。中には便箋が一枚。娘とはいえ、人の手紙を読むのはいかがなものか。私は迷った。ほんの少しの間だけ、その手紙を睨んだ。そして読んだ。読むなという方が無理である。
修一さんへ。今年は、日野岬で会えるでしょうか。ようやく、誰にも嘘をつかずに、あなたに会えると思うと胸が高鳴ります。あなたも白髪になったでしょうか。私はすっかりおばあちゃんです。もし元気でいられたら...あのベンチで会いましょう。私たちが十七歳の時に座った場所です。九月二十三日。午後五時。追伸あの傘は、まだあるでしょうか。佳代
佳代。母の名前だった。私は便箋を持ったまま、壁にもたれかかった。「……何これ」母が亡くなったのは、六月だった。八十六歳。大往生だと思いたい。父は五年前に亡くなっている。喧嘩もしていた。文句も言っていた。でも、最後まで一緒だった。その母が、知らない男に、「あなたに会えると思うと……」と書いている。しかも、十七歳の時に一緒に座ったベンチ。そして、「あの傘」。どう考えても、ただの友達ではない。それよりも気になったのは、この手紙だった。住所もない。切手もない。母は、いったいどこへ出すつもりだったのだろう。それとも、最初から出すつもりなんてなかったのか...✧• ──────────── •✧弟に電話した。「高瀬修一って知ってる?」「誰?」「お母さんの知り合いかな...」「知らん」沈黙。「手紙が出てきたの」内容を説明すると、弟はしばらく黙った。「で、どうするん?」「どうするって?」「九月二十三日」私は黙った。手紙には、場所も時間も書いてある。「行けば?」弟が言った。「お母さんの代わりに?」「うん」「相手、生きてないかもよ」「おったら面白いやん」「面白がるな」「おらんかったら海見て帰ってきたらええやん」そして弟は言った。「佳代ちゃんも、その方が喜ぶんちゃう?」母を佳代ちゃんと呼ぶな。でも、素直に納得してしまった。✧• ──────────── •✧九月二十三日。朝から雨が降っていた。私は窓の外を見ながら、何度も迷った。こんな日に岬まで行って、誰もいなかったら...そう思いながらも、午後になると車を走らせていた。日野岬へ着く頃には、雨はほとんど上がっていた。車を降りると、潮の匂いがした。雨上がりの空。濡れた道。雲の切れ間から、太陽が見えている。母が書いていたベンチは、すぐに見つかった。海を正面に見る、古い木のベンチ。そして。そこに男が一人、座っていた。私は足を止めた。七十代……もしかしたら、
八十を過ぎているかもしれない。白髪と杖。きちんとしたシャツ。膝の上には茶色い封筒。その横には...古い傘。心臓が少し速くなった。「あの……」男が顔を上げた。「はい」「高瀬修一さんですか?」男は驚いた顔をした。そして、ゆっくり立ち上がった。「違います」「すみません」私が頭を下げると、男が言った。「高瀬修一は、父です」✧• ──────────── •✧男の名前は、高瀬隆志。白髪が多いので、かなり上に見積もってしまった。「失礼ですが、おいくつですか?」「六十二です」私は心の中で謝った。隆志さんの父、高瀬修一さんは、去年の冬に亡くなっていた。八十五歳だったという。「父の机から、これが出てきまして」隆志さんが、膝の上に置いていた封筒を見せた。表には、「佳代さんへ」私は息を止めた。「母です」「やっぱり」私たちは顔を見合わせた。二人にはどうやら秘密があったらしい。しかも、その秘密を知った双方の子どもが、今、待ち合わせ場所へ来ている。「とりあえず、座ります?」「そうですね」隆志さんが、ハンカチで濡れたベンチを軽く拭いた。二人で腰を下ろした。✧• ──────────── •✧「父とお母さまは……」隆志さんが、言いにくそうに口を開いた。「恋人だったんでしょうか」「たぶん」「ですよね」「十七歳の時に、ここへ来たみたいです」「父も、それくらいだったと思います」沈黙。波の音。傾きかけた太陽が雲に隠れる気まずい。私は聞いた。「お父さま、結婚は?」「してました。母は二年前に亡くなりました」「仲良かったですか?」「まあ、普通に」「うちも普通でした」また沈黙。「……不倫?」思わず口に出た。隆志さんが吹き出した。「言いますね」「だって気になるでしょう」「気になります」「うちの父、知ってたのかな」「うちの母も……」二人で考え込んだ。親の不倫調査だなんてなんとも締まらない。✧• ──────────── •✧雲がゆっくり流れていく。隆志さんが言った。「手紙、読みます?」私は彼を見た。「いいんですか?」「たぶん...」彼は封筒を開けた。便箋を取り出す。「読みますね」私は頷いた。
佳代へ。君と最後に会ったのは、二十歳の春だった。君が結婚すると聞いた時、正直、会いに行こうと思った。やめろと言いたかった。僕と行こうと言いたかった。でも、行かなかった。君が選んだのなら、僕が邪魔をしてはいけないと思った。そのあと、僕も結婚した。妻はいい人だった。君とは全然違う人だった。でも、いい人生だった。君も、そうであってほしいと思っていた。ずっと昔、君から一度だけ手紙をもらったね。実家宛てに届いた、あの手紙。「いつか、お互い一人になったら、九月二十三日、午後五時、日野岬で会いましょう」嬉しかった。だから僕は、この約束を守ることにした。それまでは会わない。電話もしない。家族に嘘をついてまで会えば、十七歳の時に好きだった君を、汚してしまう気がしたから。佳代。僕も一人になった。だから今年、九月二十三日に日野岬へ行く。君の今の住所は知らない。電話番号も知らない。だから、この手紙も送れない。それでも、書いておきたかった。もし君が来なくても、来年も行くよ。僕たちは、もう急ぐ歳でもないだろう。追伸あの傘は持っていく。修一
私は、しばらく何も言えなかった。「……会ってなかったんだ」隆志さんが言った。「みたいですね」六十年以上...母は父を裏切っていなかった。修一さんも、奥さんを裏切っていなかった。それでも、互いを忘れたわけではなかった。会わない。連絡もしない。不思議な関係だった。「こんな恋もあるんですね」私が言った。隆志さんが頷いた。「ありますかね」二人で笑った。✧• ──────────── •✧私は、母の手紙を彼に渡した。隆志さんは静かに読み、しばらくして言った。「これはいつ頃に書かれた手紙ですか?」「母は去年の九月、肺炎で入院しまして、九月二十三日は岬へ来られる状態ではありませんでした」隆志は頷いた。
私は続けて
「きっと、その前に手紙を書いたのでしょう」でも、修一さんの住所を知らなかった。だから、出せなかった。いや。もしかしたら、最初から出すつもりなんてなかったのかもしれない。ただ、気持ちを修一さんへ伝えたかっただけなのかもしれない。隆志さんが、海を見ながら言った。「去年、父はここへ来てます」「ここへ?」「九月二十三日に、一人で出かけたんです」私は彼を見た。「じゃあ……」「たぶん、お母さまを待ってた」胸の奥が、きゅっと痛んだ。修一さんは、このベンチで、母を待っていた。互いに、相手の住所も知らないまま。「母は、会いたかったと思います」私が言うと、隆志さんは小さく頷いた。「帰ってきた時、機嫌がよかったんです」「機嫌が...?」「はい」隆志さんは、海を見た。「もしかしたら、待つだけでよかったのかもしれません」私は、その言葉を考えた。約束の場所へ行く。そこに相手がいなくても、同じ海を見る。それだけで満たされる何かが、あるのかもしれない。✧• ──────────── •✧太陽が、水平線へ近づいていた。雨雲の隙間から差し込む橙色の光が、海を照らしている。隆志さんが、隣に置いていた傘を持ち上げた。「これ……」「あ、傘」「父の書斎にあったんです」私は傘を見つめた。古い傘だった。ところどころ色が褪せている。「この傘のこと、何か聞いてます?」隆志さんは首を振った。そして、留め具を外した。「実は、子どもの頃に一度、この傘で遊んだことがあるんです」「そうなんですね」「父に猛烈に怒られました」彼は傘を開き、すぐに閉じた。「後にも先にも、あんなに怒られたのは、その時だけです」私は黙って頷いた。「だから、父にとっては特別なものだったんでしょうね」私は、古い傘を見つめた。十七歳の二人。急な雨。一本の傘。もしかしたら、この岬で雨に降られたのかもしれない。二人で肩を寄せて、この傘に入ったのかもしれない。何を話したのか。どちらが傘を持っていたのか。そんなことは、もう誰にも分からない。でも、分からないままでいい気がした。二人だけが知っている雨の日を、この傘は、六十年以上、ずっと覚えていたのかもしれない。✧• ──────────── •✧太陽が海に滲んでゆく。その時、隆志さんが言った。「来年も来ます?」「え?」「九月二十三日」「どうして?」「父たち、結局会えなかったでしょう」「うん」「だから……」彼は少し考えた。「子どもが勝手に、続きをやってもいいかなって」私は笑った。「何の続きを?」「さあ」「意味が分からない」私は少し下を向いて笑った。隆志さんはなぜか、
照れくさそうだった。
✧• ──────────── •✧帰り道。二人で駐車場まで歩いた。雨上がりの道の水たまりに橙色の雲が映る。「じゃあ」隆志さんが言った。「お気をつけて」「そちらも」少し歩いたところで、彼が振り返った。「来年は、その傘をあなたが持ってきてくれますか?」私は立ち止まった。「……もちろん」それだけ。連絡先も聞かなかった。聞く必要がない気がした。母たちだって、住所も電話番号も知らなかった。それでも、六十年以上、約束は消えなかった。来年。九月二十三日。午後五時。日野岬。それだけ分かっていればいい。✧• ──────────── •✧母と修一さんは、一度も再会できなかった。会わなかったからこそ、守れたものがあった。二人には、二人だけが知っている場所と時間があった。そして今、二人が残した約束の場所で、別の二人が、同じ海を見て雨の日の記憶をたどった。古い傘を一本、受け継ぎながら...
#拝啓文芸部 #雨の日の傘
今週も参加させて頂き、ありがとうございました🙇♂️
また、最後まで読んでいただき感謝いたします✨
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번역: Gemma 3(.44) 초벌 + 교정 검수
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