会社帰りの電車に乗っていると、窓に一筋、二筋の透明な線が、夕日に照らされてキラキラと輝いた。
だが、それも束の間だった。
夕日は跡形もなく消え、まるで電気を消したかのように車内が暗くなった。そして、電車の窓はすりガラスのように、外の景色がぼんやりとしか見えないほどの雨が降り出した。
乗客たちは一様にスマホから目を離し、窓の外を見た。
健(たける)もスマホを見るのをやめ、幻想的とも思える外の風景を眺めた。
「雨か……傘、持ってないんだよな」
思わず、小さな声が漏れた。
駅に着いても、雨の勢いはまったく変わっていなかった。
幸い、駅はアーケードで駅前商店街につながっている。屋根に激しく雨を打ちつける音は聞こえるものの、濡れることはない。
健は雨音を聞きながら、どうしようかと考えた。
スマホの天気予報を見ると、この雨はそう長くは続かないらしい。
喫茶店にでも入って、雨が上がるのを待とうか。
そうも思ったが、仕事帰りに喫茶店で時間を潰すのも気が進まない。早く家に帰って、ソファーに横になり、ビールを飲みながらネトフリでも見てだらだらしたい。
40過ぎの独身中年男にとって、それが何よりの幸せだった。
かといって、コンビニや100円ショップで傘を買うのも躊躇する。
健の家の傘立てには、途中で降られた度に買った透明なビニール傘が十本以上入っている。それ以外にも黒い傘が数本あり、すでに傘立てはギュウギュウだ。
これ以上、傘を増やしたくはなかった。
そんなことをぼんやり考えながらアーケードを歩いていると、一軒の雑貨屋が目に入った。
個人経営の小さな店で、店先にはホウキや脚立、パイプ椅子、プラスチック製のゴミ箱など、何でも置いてある。
どれも特に目新しいものではない。どう見ても、流行に沿った店という感じでもなかった。
健は、こちらに引っ越してきた一年前から、この店の存在を知っていた。
だが、一度も入ったことはない。
その店先に、黒い傘が六本、ピンと張られた紐に取っ手を引っ掛けて売られていた。
傘を買うつもりはあまりなかったが、健はなぜか店に入ってみることにした。
店内には、カラーボックス、たわし、竹箒、急須、湯たんぽ、懐中電灯……。
規則性もなく、雑然と商品が並んでいる。
健がそれらの間を縫うように商品を眺めていると、奥から小柄な老人が歩いてきた。
七十歳はゆうに越えているように見える。
「いらっしゃい」
「あっ、雨でちょっと……」
なぜか健は、言い訳のような言い方をしてしまった。
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。ただ、買う気がないのに店へ入ったことを説明したかったのかもしれない。
「傘なら、店先に吊るしてあるよ」
「ああ……いや。傘は家にいっぱいあって」
やはり、言い訳のようになった。
「そうかい。それじゃあ、傘はいらないね」
店主は笑った。
そのとき健は、雑然と置かれた商品の中に、一本の黒い折りたたみ傘を見つけた。
かなり長いこと売れていなかったのだろう。薄っすらとホコリがついている。値札の印字も少し薄くなっていた。
二千円。
健は普通の傘なら何本も持っているが、折りたたみ傘は一本も持っていなかった。
「二千円か……」
少し高い気がした。
折りたたみ傘の相場など知らないので、本当に高いのかどうかもわからない。ただ、普通の傘よりは高いような気がした。
しばらく傘を眺めていると、店主が言った。
「いいのを見つけたね」
健は、しまったと思った。
興味があると思われたかもしれない。
確かに折りたたみ傘には興味がある。だが、二千円は、買おうと即決できる金額でもない。
しかも、天気予報によれば、雨はもうすぐ止む。
「その傘はね、相合い傘なんだよ」
「相合い傘?」
「雨の日に異性をその傘の中に入れると、結ばれるんだ」
「ははは」
健は思わず笑った。
「おまえさん、嘘だと思ってるだろ」
「いや……だって……」
「まあ、たしかに嘘っぽく聞こえるのかもしれないね」
店主は笑いながら話し始めた。
「私はね、同じ傘を十本仕入れたんだ。黒を五本、赤を五本。ある行商人が売りに来てね。『雨の日に異性を入れると結ばれる、縁起のいい傘だ』なんて言うんだよ」
「それで信じたんですか?」
「まさか。私だって最初は売り文句だと思ったさ。ただ、値段もそう高くないし、折りたたみ傘だから場所も取らない。まあ、十本くらいならいいかと思って仕入れたんだ」
店主は続けた。
「ところが、折りたたみ傘なんて、そうポンポン売れるもんじゃないだろ。しばらく売れなかったんだ」
「でしょうね」
「でも、ある雨の日にね、若いサラリーマンが一本買っていったんだ。そのとき、私も例の話をした。『この傘は相合い傘で、雨の日に異性を入れると結ばれる』ってね」
「その人も笑ったんですか?」
「ああ。そんなものは売り文句だと思ったんだろうな」
店主は少し間を置いた。
「ところが、しばらくして、そのサラリーマンがまた店に来た」
「へえ」
「『あの傘は、本当に相合い傘でした』って言うんだよ」
「本当に?」
「なんでも、昔好きだった同級生の女性がいたらしい。ある日、同窓会があって、その帰りに雨が降り出した。そこで、その女性を傘に入れてあげたんだそうだ」
「それで?」
「その女性から、『昔から好きだった』と告白された」
店主はニヤリと笑った。
「そして、結婚することになったんだとさ」
「ははは」
健は笑った。
そんな偶然があるものか。
「お前さん、やっぱり信じてないな」
「まあ……普通は信じないですよ」
「そうだな。私だって、その一回きりなら偶然としか思わないさ」
「……二回目があったんですか?」
思わず、健は聞いていた。
「ああ。あったんだよ」
店主は楽しそうに笑った。
「今度は赤い傘を買った人だった。六十歳くらいの、少しふくよかな女性でね。やっぱり例の話をしたら、『それは縁起がいいわね』と言って買っていった」
「それで?」
「しばらくして、その女性がまた来たんだ」
店主は続けた。
「その人、ダイエットのためにダンス教室に通っていたらしくてね。そこで、ある男性と知り合ったそうだ」
「ほう」
「ある日、突然雨が降ってきた。二人でその傘に入って帰ったらしい」
店主は笑った。
「そしたら、その男性から一目惚れだと告白されたんだと」
「へえ……」
「その人も、結婚することになった」
「……」
「生涯独身だと思っていたのに、傘のおかげだって喜んでいたよ」
健は、売り文句だと思いながらも、少しずつ心が揺らいでいた。
「続きを聞きたいかい?」
店主が笑う。
「ええ。あるのなら」
「あるさ」
店主はそう言うと、少し照れたような顔をした。
「三本目は、何を隠そう私の話だよ」
「店主さんの?」
「ああ。今のカミさんも、その相合い傘のおかげで知り合ったんだ」
店主は、ゆっくりと話し始めた。
「私は二十年前に先妻に先立たれてね。それからずっと一人暮らしだった。あるとき、このままではいけないと思って、何か趣味を持とうと考えたんだ」
「それで?」
「昔やっていた絵を、もう一度始めようと思った。せっかくだから本格的にやろうと、絵画教室に通うことにしたんだ」
店主は少し笑った。
「もちろん、そのときはまだ傘の話なんてそんなに信じちゃいなかったよ」
「じゃあ、どうして?」
「いや、ちょっと試してみようと思ったんだ」
「試す?」
「ああ。十本仕入れたうちの一本の黒い傘を。どうせ売り文句だろうと思いながらも、あるいはと思って自分で使ってみることにしたんだ」
店主は、少し遠くを見るような目をした。
「ある雨の日だった。絵画教室が終わって外に出たら、雨が降っていた。そこで、店から持ってきたあの黒い傘折りたたみ傘をカバンから出してを開いた」
「それで?」
「そのとき、教室の先生だった女性が、玄関のところに立っていたんだ」
「……まさか」
「彼女は傘を持っていなかった」
店主は笑った。
「私はね、半分は冗談だった。半分は、せっかく自分で試すんだからと思っていた。だから、こう言ったんだよ」
「よかったら、一緒に入りませんか」
「それで?」
「彼女は少し驚いた顔をしてね。それから笑って、『お願いします』と言った」
店主は、当時を思い出すように続けた。
「二人で一つの傘に入って歩いたんだ。ほんの十分か十五分くらいだったと思う」
「……」
「それが始まりだった」
店主は笑った。
「それから少しずつ話をするようになってね。絵の話をしたり、昔の話をしたり。一緒に食事をするようになって、いつの間にか付き合うようになった」
「へえ……」
「私より十歳も若い人でね。その人も先夫に先立たれて、一人だった」
店主は、少し照れたように笑った。
「そして、今のカミさんさ」
「本当に、傘のおかげだったんですね」
「どうだろうね」
店主は首を傾げた。
「傘のおかげだったのか、それとも、たまたま雨の日に傘を持っていなかっただけなのか」
「……」
「今でも、どっちなのかはわからないよ」
店主はそう言って笑った。
「ただね。あの日、あの黒い傘を持っていなかったら、私は声をかけなかったと思う」
健は、もう笑えなかった。
本当に、そんなことがあるのだろうか。
むしろ今、この傘を買わなければ、何か大事なチャンスを逃してしまうような気さえしてきた。
健は、二千円の折りたたみ傘を手に取った。
「これ、ください」
「ありがとうございます」
店主は、にこやかに笑った。
店を出た。
さっきまでアーケードを叩きつけていた雨音が、聞こえない。
健は足を止めた。
いつの間にか、雨は上がっていた。
屋根の縁から、たまった雨粒が一滴、また一滴と落ちている。
ポツン……ポツン……。
さっきまであれほど激しかった雨が、まるで最初から降っていなかったかのようだった。
アーケードの向こうには、夕日が戻っていた。
濡れた路面が夕日を映し、商店街全体が淡いオレンジ色に染まっている。
人々が傘を閉じ、何事もなかったように歩き始めている。
健は、手にしたばかりの折りたたみ傘を見た。
まだ一度も開いていない。
「……なんだよ」
思わず、小さく笑った。
これじゃあ、買った意味がない。
そう思ったはずなのに、なぜか傘を手放したくはなかった。
本当に、そんなことがあるのだろうか。
やはり、ただの売り文句で、売れ残っていた折りたたみ傘を買わされただけなのではないか。
だが、あの店主が、まんざら嘘をついているようにも思えない。
もし、本当だったら――。
健の頭の中で、嘘と本当が行ったり来たりする。
けれど、今はもう確かめようがなかった。
雨は、止んでしまったのだから。
健は傘を鞄にしまった。
そして、夕日の中を歩き出した。
ただ、その足取りは、心なしか少しだけ軽かった。
その日から。
健は、どこか心の中で、雨の日を待っていた。
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번역: Gemma 3(.44) 초벌 + 교정 검수
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