映画『我々は宇宙人』を観ました!おもしろかったです!本記事ではこの映画の感想を語ってみます! ネタバレありです。
映画『我々は宇宙人』公式 - NOTHING NEW
『我々は宇宙人』(われわれはうちゅうじん、洋題:We Are Aliens)は、2026年9月25日に公開された日本の長編アニメーション映画。企画・脚本・監督は門脇康平。
目次
- あらすじ
- 感想
- 感想①:人生を誰かのせいにすることについて
- 感想②:バタ原が特異すぎる
- 感想③:人間関係の膠着化は息苦しい
あらすじ
私なりに簡単に映画を振り返ります。
主人公は、後藤 翼(ごとう つばさ)と星 暁太郎(ほし ぎょうたろう)です。一方で翼は、小学校低学年くらいまでぼやっとしたタイプでしたが、暁太郎と出会って少し明るくなります。しかし、翼はだんだん暁太郎と過ごすのを避けるようになり、中学ではDQN(ドキュン=ヤンキーのような人々)とつるむようになります。高校では少し真面目になり、大人になってからは楽しく働いているようです。他方で暁太郎は、小学校低学年くらいまでは口数が多く知識が豊富でクラスの人気者でしたが、だんだん周囲からうっとうしがられるようになっていきます。そして女子の運んでいる水槽を破壊した疑いをかけられたこと(冤罪)が決定打となり、すっかり学年で避けられる存在となり、悪評や除け者扱いは中学以降も続きます。大人になってからはアルバイトをしながら、小学校時代の友人たちの華々しいSNSの投稿を恨めしく眺めるような生活を送っています。
大人になった暁太郎は、水槽破壊の冤罪をかけられる原因となった翼を恨んでおり、翼が同級生の結婚式から帰っているところに押しかけ、翼に対して自分の人生が悲惨なものになってしまったことの責任を追及します。暁太郎は翼といろいろ話しているうちに、暁太郎が両想いだと思っていた目黒 小夏(めぐろ こなつ)さえも、実は両想いということはなく、自分は翼が偽装したラブレターを大事に抱えてきただけだったと知らされます。
暁太郎はこうした経緯を小学校からの同級生であるバタ原 大(ばたはら)に話したところ、バタ原から笑い飛ばされ、「実は小学生のころから暁太郎が話しかけに来てくれるのを楽しみにしていた」と聞かされます。このとき暁太郎はタクシー運転手として人生を軌道に乗せなおしています。高速道路で暁太郎と翼は偶然隣合わせとなり、それぞれが異なる路線へと分岐する際、互いに「じゃあねー!じゃあねー!」と何度も叫び合って、物語は幕を閉じます。
感想
この映画は、映像が圧倒的にすごいです。あまりにも緻密で丁寧に作られています。あと、子どもらしい動きや会話や反応などがあまりにもリアリティある仕方で作られていると思います。コラショの目覚まし時計の音声や、小学校低学年くらいまで男子の将来の夢の報告が思ってもない「サッカー選手」ばかりになるところとか、私自身の記憶と一致していました。
感想①:人生を誰かのせいにすることについて
本作を見てみて、一番掘り下げてみたいと思うのは、〈人生を誰かのせいにすること〉というテーマです。暁太郎は、自分の人生が悲惨なものになってしまったことの原因を翼に帰しており、翼に対して責任を取るよう追及しています。しかし、翼は「責任を取るといっても今更何をすればいいんだよ!」といった趣旨の返答をしており、実際暁太郎の人生に対して特に何の責任も取りません。「悪かったと思っている」ということは認めていましたし、ラブレター偽装の真実を明かすなどして、結果的に暁太郎が自分の人生を好転させるきっかけを与える働きはしていると思いますが、翼は暁太郎に対して何か償いや埋め合わせをするわけではありません。こうしたやり取りを通して暁太郎は、①今更翼に償ってもらえることは特にないこと、②「翼さえいなければ恋愛が成就するはずだった」という失われた輝かしい未来さえ、実のところ幻想にすぎなかったこと、③翼からのひどい行いだけが問題なのではなく自分自身のしつこさが原因で多くの人に嫌われていた面もあったことなどを痛感させられます。そして、暁太郎はタクシー運転手として人生を軌道に乗せなおすことに成功します。
私はここから、次のようなテーマを読み取りました。すなわち、
自分の人生に悪い影響を与えた人物がいたとしても、〈その人物に責任を取ってもらうまで自分で自分の人生を好転させない〉という態度を維持している限り、自分の人生が好転する機会を本当に取り逃し続ける恐れがある。
こうしたテーマを読み取った背景には、私自身の体験があります。私は、20代前半のある時期まで、自分の性格のとある難点について、父からの影響が大きく出ていると考え、自分の中で父にその原因を帰していました。しかし、友人からの指摘をきっかけにして、自分の性格の難点を父のせいにする思考を差し控えるようになり、それを自分自身の問題として対処するように思考傾向を切り替えるということがありました。こうした切り替えは自分にとって事態を好転させることに繋がったと感じています。私は、私の性格形成において、実際に父からの悪影響があるのはいくらか事実だと思っています。しかし、たとえ原因や責任を父に求めることがいくらか正当だったとしても、いつまでもそうした思考をただ自分の中で繰り返し続けて生きることには何らかの問題もまたありそうです。
暁太郎は、「翼さえいなければ、クラスで除け者にされることもなく、小夏と結ばれることができたはずだ」という恨みを抱いており、自分の経済状況や就労状況を改善させることもなく、ただ翼のSNSを見ることでそうした憎悪を掻き立てることに日々を費やしていました。しかし、翼と会話したことで、どうやら翼とは独立に自分自身の性格が原因で人々から嫌われていたようだし、翼とは無関係にもともと小夏と結ばれることもなかったらしいと痛感することとなります。こうして、現状を捉えなおした暁太郎は、仕事を変えて、自分の人生を好転させる機会を得ることができた、という展開として理解しています。
おそらく、人生では、ある時期までは、「あれさえなければもっと状況はよかったはずなのに…!」という思いがそれなりに妥当することもあると思います。しかし、何らかの時期を過ぎると、そうした現在の不遇の状況を〈現時点での初期条件〉として捉えなおして、その初期条件はもう問い直しの対象とせず、ひとまずそうした〈現時点での初期条件〉に基づいて「ここから何ができるだろうか」を考えるのが妥当になってくる、ということが人生においては成り立つように思います。なおここでの妥当性というのは、人生に対して感情や行動によって向き合う際の正当性や合理性のようなことを指しています。
ただし、本当に度し難い暴力的な言動については、〈責任や保障を追及することをやめて、自分で自分の問題を解決するように切り替える〉という対応をすべきなのか、できるのかは一概には言えませんね。家庭内暴力とか性暴力とか戦争とか虐殺については、〈そうして負った傷を現時点での初期条件としたうえで、もはやその背景にある責任追及は差し控えて、ここから自分自身で何ができるかを考えよう〉という対応をできるのか、したほうがいいのかはよくわかりません。できるのならそうしたほうが、当人の人生が好転する見込みが高まることはありうるとは信じてみたいですが、やはりそうした対応を根本的に難しくさせるほどの根本的な破壊というものがときとしてありそうな気もします。
暁太郎については、相棒だった翼から無視されたり図工作品の落下により貶められたりなど、ひどい扱いを受けてはいますが、これによって人生が全面的に破壊されるほどかはわかりません。(もちろんひどい行いだし、ひどい悪影響を及ぼしているとは思います)。
そう言えばSNSなどでも、「いじめた側はいじめたことを忘れがちだが、いじめられた側はそのことをずっと覚えているものだ」とか、「攻撃的な気質の人間はスポーツや営業職や飲み会や恋愛などへの適正の高さにより、人生をパワフルな仕方で好転させる傾向にあるが、おどおどした気質の人間はそれらへの適性の低さにより、人生をつらく苦しい気持ちで歩む傾向にある」といった趣旨のことが語られる気がします。
このように〈攻撃やスポーツや社交への適性の高い人々〉と〈そうでない人々〉との間に線を引いて区別したうえで、「前者の人々から過去に受けた被害を、後者の人々である私たちは覚えており恨んでいるぞ」といった認識は、一部の人々において繰り返し語られている気がします。私自身としても、小中学校のころは、そうした〈攻撃しやすい人〉と〈攻撃されやすい人〉が、第三者的な管理の乏しい環境で無防備に狭い空間へ長期的に同居させられた結果、痛ましい出来事が起こっているイメージがあります。そして、大人になるにつれて、お互いに安全に暮らせる、波長の合う人同士で群れるようになっていくというイメージがあります。こうした枠組みで捉えるならば、暁太郎は、最終的には波長の合う人(=バタ原)や波長の合う居場所(=タクシー会社)を見つけて、収まるべき場所に収まったのかもしれません。しかし、部分的にはその無邪気さゆえに、よくも悪くも波長の合わない人が親密な関係を築くことができてしまう〈小学校〉という特異な環境において、(「不幸にも」)一時的に仲良くなってしまった翼という相手に対して、暁太郎がいつまでもこだわり続けていたことが、本作における暁太郎の悲劇的な大人時代を形成している部分があるとも言えるのかもしれません。終盤、「じゃあねー!じゃあねー!」という、大人には似つかわしくない、子どもに似つかわしい無邪気な言葉で互いの別離が明確に表明されました。無邪気さゆえに開始した交わりが、無邪気な言葉でその終わりを告げられるというのは、象徴的なことかもしれません。彼らは子ども時代に関係性を開始し、大人になった今でも、子ども時代の関係性を子ども時代の関係性のままに終わらせたのかもしれません。↑このことが何を意味しているのか自分でも正確にわかりませんが、なんだかそういう感じがします。
私は「じゃあねー!」の応酬のシーンで本当に感動しました。目頭が熱くなりました。
人生は、私が語ってきたように、〈幼い頃は人間同士の相性など考慮されずに多様な人々が不可避的に同居させられ、大人になると相性のいい人同士で群れることができるようになる〉というほど単純なものではないのかもしれません。こうした捉え方にはたくさんの例外があることでしょう。しかし、こうした捉え方は、現実の少なくとも一部をそれなりに正確に反映しているところもあると信じています。無邪気な時期に出会って仲良くなった人々と、どれくらい仲良くし続けたり、仲良くするのを控えたりすればよいか、といったことは私自身としても気になるところだなと思いました。
感想②:バタ原が特異すぎる
本作は、人々の会話や動作があまりにもリアルで写実的でした。そんな中で浮きに浮きまくっているのがバタ原という存在です。異常な名前、異常な髪形。そして、なぜか小学校の校舎内に長年個人で秘密基地を持ち続けている異常事態。さらに、暁太郎に対して「(水槽破壊の冤罪について)暁太郎がやったんじゃないって知ってるよ」といった重要なアクションを行い、そして何と言っても、暁太郎の人生をかけた大一番の復讐とその失敗について大声で笑い飛ばし、さらには暁太郎が嫌われる要因だとされたしつこさの表れとも言える〈話しかけまくる〉という行為について「いつも楽しみにしてたんだよ」と何の気なしに言ってしまう、同情や憐れみを抜きにした無邪気な救いの言葉を投げかけるわけです。バタ原は、暁太郎を救うこと、ひいては物語全体を何とかハッピーエンド(悲惨すぎないエンド)にもっていくという役割を果たすにあたり、最小限の登場回数で最大限の効果を発揮しています。少し意地悪な捉え方かもしれませんが、他の登場人物がリアリティに溢れているからこそ、かえってバタ原の存在はあまりに舞台装置すぎるものとして際立って見えるところがあったかもしれません笑他の登場人物はリアルすぎて鳥肌が立つくらいに人間だったと感じていますが、バタ原だけは笑っちゃうくらいキャラクターだったように思います。
その他の感想としては、恋愛の要素が最小限に抑えられていてよかったです。また、男児だけでなく、女児には女児に特有のリアルな生活が現実にはあったとは思いますが、それは必要以上に描かれていなかったように思います。つまり、翼と暁太郎の関係性をめぐる重要なポイントを際立たせるにあたり、不要な要素はそぎ落とされていたように思われるのです。それは好ましいことだと感じています。
感想③:人間関係の膠着化は息苦しい
暁太郎は、小学校の頃の悪評が、中学以降でも引き続き拡散されており、健やかな日々を送るのが難しい状況が再生産され続けていました。学校や会社という閉鎖的な環境においては、評判というものが当人の生活の質をかなり左右するように思われます。
すみませんが、映画に触発される仕方で、ここからは関連した自分語りを開始させてもらいます。これが私なりの映画の楽しみ方でもあるので、どうかご容赦いただけると幸いです。私の個人的な体験としては、中高一貫校に高校から入ったのですが、「あの子は『〇〇』(=ひどい侮辱的な呼び方)って呼ばれてて、関わらないほうがいいぞ」みたいな情報を時として耳にすることがありました。(そういう扱いを受けている女子が学年で2人くらいいました)。そうした扱いを受けている人は、たいていちょっと変わっていたり、顔立ちが不均等だったりしていた気がします。ただ別に悪い人とか嫌な人というわけではありません。しかし、一度〈みんなでひどい扱いをしていい人〉という地位を確立されてしまうと、当人の力でそうした状況を掘り崩すのはおそらくかなり難しいのです。つまり、人間関係が固定化している限り、挽回のチャンスはあまりやってこないように思われるのです。私はそういうのが嫌で、せっかく先入観なしで外から入ってきたのだから、そうした膠着化した状態の再生産に加担したくないと思い、むしろそうした扱いを受けている人と積極的に話すようにしていました。そうしたら、だんだんそうした人はクラスで話しかけられるようになってきたりします。目論見通りにいってよかったです。(こうした振る舞いは、同情に基づく、唾棄すべき振る舞いなのでしょうか。私にはわかりません)。
私は小学校の頃から転校が多かったため、〈特定の人間関係で安定した地位を築くこと〉や〈その地位の維持のために他の人を排除すること〉によって得られる利益があまり多くありませんでした。そこで、むしろ膠着した人間関係の気に食わない部分を改善することに自分の役割意識をもっていた節があります。
私は学校や会社などで、誰かが誰かを排除し続けているのを見ると、排除している側の人間があまりにも薄汚れた者に見えてしまい、仲良くするのが心情的に難しくなることがあります。とはいえ、所属集団内で自分の地位を維持することは多くの人にとって死活問題であるため、そのために誰かを排除するという仕方で〈不道徳さへの加担〉という種類のコストをやむなく支払っている部分もあるのかもしれません。しかし、私はおそらくこの点で道徳的に潔癖的であり、そうしたことが遠因となり自分自身の孤立に繋がってきた節もあります。
私は、中高時代の自分なら、おそらく暁太郎(=チャーハン)を除け者にしない動機を持っていた可能性があるなと思ったのでした。
感想は以上になります。いい映画を見れて嬉しかったです。ここまで読んでくださってありがとうございました!
おわり
출처: note 원문
번역: Gemma 3(.44) 초벌 + 교정 검수
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