翼と暁太郎。小3からの30年間、10歳から40歳くらいまでの同級生2人の交錯する人生。
美しいタッチで描かれる子ども同士の「おふざけ」や「お遊び」。懐かしく温かいその風景は、最初こそ、微笑ましく観られるのだけれど、徐々に翳りが見えはじめる。
以下、ネタバレを含みます。お互いを惹きつけていた「違い」が、決定的な違和感に変わっていく。
友だちになるきっかけは、自分にはない何かを相手の中に認めた時。それがまぶしくて、相手を「相棒」にする。
関係が次第に深まり、遠慮がなくなると、魅力に思えていた「違い」が、「違和感」になる。
「だーれだ!」と目隠しされる、その手の当たりがパチンと目を打つ不快感。「やめて」といってもやめてもらえない。
暁太郎がじゃれるたびに、翼の学習机にぶつかり、ノートの文字が揺れる。「嫌だ」といっても、言葉が通じない。次第に、相手が「相棒」から「宇宙人」に変わっていく。
わざわざ教室から離れたトイレにいって、ゆっくりと用をたしていた翼。突然、個室の上部に手をかけ、暁太郎が顔を覗かせてくる描写には、ゾワっと恐怖さえ感じた。
過去への執着が、今を覆っていく
雨上がりには、決まって傘を学校に置き忘れる翼。学期末には、山のように溜まった傘を両手に抱えて帰宅するシーンは、今思えば、翼のサバサバした性格の現れだった。傘を忘れるように、過去の傷を(表向きには)忘れ、目の前に広がる「今」を生き、過去を更新して、ライフステージを上がっていく。
一方の暁太郎は、小3でもらったラブレターをジップロックにいれ、過去を2倍にも3倍にも膨らませ、今現在の惨めさをすべて翼になすりつけ、過去の怒りを増幅させ、過去を生きている。
過去の傷を水に流す、魔法の言葉
30年経って、渋滞の高速道路で隣り合わせる二人。お互いの背筋に走る緊張。お決まりのごとく黙ってやりすごそうとする翼に対し、暁太郎は、子どもの頃の無邪気さで「じゃあねー」と叫ぶ。翼の子どもがそれに応え、ついには翼も叫ぶ。
そうだ、「じゃあね」でよかったんだ。ようやくほっとして、私は涙した。過去を水に流すこと、忘れちゃうことは悪ではない。前に進んでいい、そう言われてる気がした。
思えば、印象的なシーンにはいつも水が登場していた。雨、水槽、涙、トイレ。溢れ出る感情のみずみずしさ、生々しさを、水が表現していた。
あとから、中1でうたった合唱曲『じゃあね』を思い出した。あの頃は意味もわからず歌っていたけれど、谷川俊太郎によるその歌詞は、まさに、過去に対して「じゃあね」と手を振ることを謳っていたのだ。
大人になっても、『我々は宇宙人』
大人になって社会性を身につけ、社会に適した予測可能な行動をとるようになると、私たちはお互いを宇宙人とは思わなくなるけれど、時々垣間見える相手の行動が意表を突いたものであると、恐怖を感じたり、距離を置いたりすることがある。
実のところ、大人になっても、我々は相変わらず宇宙人で、お互いに理解できないものを抱えているのだと思う。
だから、ぶつかり合い、苛立ちながらも、過去は水に流し、「じゃあね」「またね」と言い合って、くっついたり離れたりしていくんだなと思う。
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번역: Gemma 3(.44) 초벌 + 교정 검수
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